終戦の頃の私
その時、母が「早く蔵を塗らないと……」と慌てた。村長さんの家では、すでに白い蔵を墨で黒く塗っている。全部が黒いならまだしも、太く歪んだ縞模様のように塗った蔵は、子ども心に漆喰の剥げたのよりもっと惨めに見えた。襤褸をまとった物乞いの姿を連想させ、この戦争に負けるのではないかという不安が過ぎったものである。
返事をしない父に、「飛行機は白壁を標的にするって聞きましたが」、と母は食い下がる。
「秋山ん家で墨を塗るまでは、塗らないことにしている」
「熊谷があんなに何時間も爆撃を受けたのだから、この辺だって危ないでしょうに」
「アメリカの飛行機にはレーダーがついていて、目で見なくても地上に何があるのか分かるんだ。今更、墨を塗ったところで蔵を隠せるわけがない」
釜伏山の麓にある父の生家の蔵は二つ、白い双六の駒を間隔をあけて並べたように遠くから認められた。秩父線の電車からも、三里も離れた上熊谷のホームからもよく見える。
「それでもねえ」。心配そうに祖母も母に同意したが、「秋山で墨を塗るまでは、塗らない」と父はきっぱり言い放ち、私を見て急に話題を変えた。
「今日は遊びに行かないで、大事な話があるから皆と一緒にラジオを聞くんだよ」
「本土決戦?あの竹やり持つの?」。奥の物置に男衆が作ってくれた竹槍が隠してあるのを知っていた。新型爆弾が広島や長崎に投下され、熊谷まで爆撃されたというのに、竹槍などで勝てるのかと子どもながら疑問だった。
あの日、深夜に熊谷に飛来したB29の無差別爆撃は、ポツダム宣言受諾後に止めを刺すように市域の74パーセントを焼いた。一夜に焦土と化した朝、熱風に水を求めて飛び込んだ星川には人の死体が折り重なっていたという。約2,000発、約600トンの焼夷弾や大型爆弾を低空飛行により投下された街は全戸数の40パーセントに及び、死者は266人、負傷者は約3,000人に達したという。皮肉にもその日、敗戦を迎えたのである。
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