17歳の記憶 ~昭和20年~
1945年(昭和20年)8月15日、日本の戦争は終わった。戦闘帽、軍靴に巻脚絆、学徒動員で陸軍大宮造兵廠の旋盤工だった少年(旧制中学5年生)であった私は、その日、午前中に帰され、昭和天皇のご詔勅を自宅で拝聴した。その後は、何が何やら見当もつかず、すべて成り行きに従う生活を続けるより仕方なかった。
9月にD・マッカーサーが厚木飛行場に飛来した。連合軍総司令部(GHQ)の日本国占領がはじまった。そして、何とここ桶川の三井精機の工場にもアメリカ第7騎兵師団の一部が進駐してきたのだ。
12月になってクリスマスも間近かの薄暗くなりかけた頃、家から目と鼻の先の駅通りの魚信、(現駐車場)おじいさんの店、八百銀、稲垣商店の四つ角にマント姿の米兵二人の大男がにやにやしながら立っていた。近寄ると「シガレットは要らぬか?」という。“洋モク”を売りにきていた悪い奴らか、それとも・・・。町のど真ん中で堂々の違法行為である。なんとなく後ろめたい気持ちもあったが、すぐそこだから「家に来ないか」と英語で言ったら、ケロッとして従いてきた。(江利チエミの“カモン・ナ・マイ・ハウス”はもっと後の曲であるが)二人はヒュー・ガーレイ軍曹と相棒の伍長である。顔は鮮明に覚えているが、名前は出てこない。そのとき。「俺たちのいる三井の講堂で毎晩、映画をやっているから観にこないか?」という。洋モクの横流しをする奴らだし、「ほんとに?」と半信半疑で、聞いてみると、軍曹は映画技師であり、伍長は毎日プリント(フィルム)交換のため横浜にジープで往復する運び屋が職務だったのだ。
驚喜!即、翌日から5時半に家を出て西口の三井通いをはじめた。正門から入り、すぐ左手のあまり大きくない木造小屋と言ってもいい、キャパ150~200人程度の講堂を目指してドアを開けた途端、ムーッと不思議な臭いと熱風が顔を襲う。石炭ストーブをがんがん焚いて、シャツだけでもokなくらいだ。はじまる前の兵隊たちは、わいわいがやがやはしゃぎまくっている。コークのビンやビール、ウイスキーグラスを片手に大きなゼスチャー。ある者は日本人女性の肩をやさしく抱いていたりしていたカップルが複数目にとまる。
飲み食いしながら映画を観るなんて最高!。終戦直後から米軍のF・E・N(極東)放送で、さんざん聞きなれていたアンドリュース・シスターズの“ラム&コカコーラ”の曲が自然に湧いてきて、其の光景や雰囲気にすっかり酔わされてしまった少年であった。
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