終戦の頃の私
蝉しぐれの中で、玉音放送を聞いた。負けたというのはどういうことなのか。これから何が起こるのか、誰も教えてくれなかった。
その夜、電気の笠に懸けてあった黒い布が、どの部屋もはずされ明るくなったことと、空襲警報が鳴らなくなった安心感はよく覚えている。翌日、格子戸が物置から出され冬の雨戸と替えられた。ようやく夜が明るくなったことと、遮断されていた涼やかな風が格子戸をくぐってどの座敷にも入るようになった安堵感は忘れられない。それまで明かりが外に漏れるからと、8月になっても板張りの雨戸のままだったのである。
霞ヶ浦の部隊から帰還した兄が、「あと一月戦争が続いたら、外地へ行くことになっていたから、生きては帰れなかったかもしれない」と、感慨深く語るのを聴いた。
2学期の授業は教科書の墨塗りから始まった。私はまだ低学年だったのでたいして塗りつぶすところはなかったが、休む間もなく学校に戻った兄は、6年生の担任なので「消すところが多くて、困った……」、と苦渋の色を顔に出した。
「間違ったことを教えていたのかと思うと、やりきれない」、と口を噤むのに誰も応えなかった。父は「やはり、弟の言った通りになった」と、大正デモクラシーの時代に大学生活を送った叔父が、こっそり「この戦争は負ける」といっていたことを話し出した。
そんなことは子供の前で言うものではない、と母は父を睨んだ。しばらくして、
「まあ、仕方ない。戦争に負けたんだから…、戸惑いは誰にでもある」
その場の空気を和らげるように祖母が明るく言った。
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