終戦の頃の私

 終戦になって間もなく、わが家を揺るがす事件が3つ続いた。わが儘だったが、いつでも明るく笑顔を振り撒いていた祖母が70歳で逝った。脳梗塞だった。

 校長から「学校の先生にさせないか」、「学徒勤労動員の女学生たちの監督をしてもらいたい」、と三ケ山の立川陸軍航空補給廠寄居出張所からも頼みに来たが、父は「娘を勤めに出すと世間ずれするから駄目だ」と断り、とうとう姉を勤めさせなかった。

「嫁ぎ先の色に素直に染まるように」、と箱入り娘にして育てられた大正の末に生まれた長姉が、一度のお見合いで嫁いでいった。

 その翌年に農地改革があり、男が農業をしていなかった私の家は小作に解放する一方で、隣村の田圃まで不在地主ということで手放す羽目になったのである。大地主だった長姉の嫁ぎ先も、大部分を解放し身上を潰してしまった。

 あの頃、10歳前後の私は何にでも興味津々で、大人の話を聞き漏らすまいと背伸びしていた記憶がある。だが、世の中の変化の根源を理解するには、まだまだ子供だった。


 

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