川田谷と長命寺についての思い出
奉納された人々の中に3名の川田谷村の人が記されてあるのに目が留まつた。その氏名と金額を表せば、50円川田谷村内田冂人、20円川田谷村金子兵右ヱ門、10円川田谷村吉川一長と刻まれてあった。特に内田冂人とあった事に、私の頭の中に、すぐこの内田氏が川田谷のどの地区の家の人であるかわかった。亮瑞住職の事やこの石碑の川田谷の部分などを手帳に書き写しデジカメにも納めた。その足で突然であったが、友人宅を訪ね、久しぶりの再会を喜び合い、色々と歓談し、お世話になり、有意義な時を過ごす事が出来、感謝の気持ちでいっぱいであった。
その後、川田谷の柏原地区にある「お墓山」内田家の墓地に行き、歴代の墓石の中から國三郎氏や冂人氏の氏名等も確認することが出来た。又、泉福寺歴代住職の墓石から根本亮継師は泉福寺の50世で泉福寺から比叡山の正蔵院へ転住され、明治24年12月初8日に遷化されている。
又、泉福寺に建立されてある牛頭観音は内田冂人氏が発願された話は前々から聞いていたが、今回の事で改めて牛頭観音の裏面を見て驚いたのは大掛かりな建碑協賛会を造り、その会長は当時埼玉県知事の大沢雄一氏で発願筆頭人は内田冂人氏で、地元川田谷を始め埼玉県下の人々はもとより、東京・千葉・群馬・福島県の個人の多くの人々が奉志金を出し、又、多くの諸団体や酪農関係の会社、天台宗の寺では、本山の比叡山延暦寺・喜多院・慈恩寺など埼玉教区の寺々等が係り3年以上の年月をかけて建立されていることがわかり,その中に長命寺内田大三、金蔵寺内田大亮、東京内田一の各氏の氏名も刻まれている。その後友人より電話で長命寺の事について助言を頂き亮瑞師夫人は馬込の満蔵寺の出身で3男3女の子どもに恵まれ、長男が一氏で建設省の役人になり、次男は金蔵寺(東神奈川にあり)の住職になり、3男の大三師が長命寺を継いだとの事であった。
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