17歳の記憶 ~昭和20年~

 さて、そこで連日上映された戦争もの、西部劇、ホームドラマ、ミュージカル等々あらゆるジャンルの作品は何と何だったか?伍長の名前同様残念ながら、情けなくも殆ど憶えていない。だが、ただ一つ、ヂィープ・インパクト、大なる衝撃を受けたのは20世紀フォックスの「ステート・フェア」でそれこそ総天然色にビックリした。戦前にほぼ隣の甲子座で観た日本映画はすべてモノクロであり、初体験の鮮烈な印象が今でも忘れられない。其の作品は、多分ユタ州(定かではない)の年に一度の牛からジャガイモまである品評会と祭りを描いた作品であったが、ジーン・クレインなるヒロインにジーンときてしまった。

 もっとガキの頃グローリア・ジーンという女優に出会ったときと同じようなときめきを覚えたことも忘れられない。


 翌、昭和21年、G・H・Qの民間情報教育局(C・I・E)が日本の民主教育と称してセントラル・モーション・ピクチュアー・エクスチェンジを設立し、 アメリカ映画各社の作品を配給、全国での公開が開始された。あの作品も、この作品も勿論「ステート・フェア」もぜんぶ当然字幕つきである。その時の映画好 きの少年の感慨たるや!。

 ところで、あの三井精機の講堂はその後まもなく、原因不明の火災によって灰となってしまい少年の夢も歓びも一瞬にして儚く消えてしまった。

  しかし、学校を卒業後私は、迷わず映画の仕事に飛び込んだ。鮮烈なはじめてのカラー作品に導かれたのかもしれない。そして、フランス映画である「エマニエル夫人」の輸入とその上映には数々の困難と喜びが共存した経験をさせてもらった。定年後の今も細々とではあるが、映画という総合芸術の継続に片足を踏み込 んでいる。
 

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